来し方

 

PreTUT

 

19664月〜

 

 

1966年4月神戸大学に入学した竹元は、巷ではブームとなっていたフォークソングをやるべく、軽音楽部(当時軽音楽同好会)に入ったが、当時軽音楽部にはフォークソングバンドはなく、フォーク希望の新入生も竹元同様バンド経験がなく、男3人でPPMスタイルをやったり、ロックバンドや他大学から応援を得たりしながら、細々と活動をしていた。 1967年夏、和製フォークソングも含めてフォークソング全盛時代に突入しており、その活動の中心は大学生で、軽音楽部としても部全体の活動として、フォークバンドが必要ではないかという意見も出、ブルーグラスバンドから2人の応援を得て、The Kingston Trioスタイルのバンド「Manchester 67」を結成、大学関係イベントや軽音楽部の定期演奏会を中心に活動し、同年10月にスタートした毎日放送の公開録音番組「歌えMBSヤングタウン」には、11月に出演した。 このバンド「Manchester 67」に応援参加していた一人が、今回ベーシストとしてTUTに加わった馬渡である。

 

 

 

 

Manchester 67(竹元、馬渡、中筋、ベース大塚)

 

 

 

 

但し「Manchester 67」の活動は、全員掛け持ちということもあり、1年弱で終焉した。 68年春、ようやくフォークソングバンド希望の新入生が約10人入部し、またそれまでバスケットボール部に所属していた上野と、軽音楽部で前年結成されたフルバンドの一員であった谷戸が、フォークソングバンドに加わることになり、一挙に竹元1人から軽音楽部一の大所帯となった。 しかし新入生も高校生時代の経験は乏しく、直ぐにバンド結成しての演奏活動は出来ず、取り敢えず多人数のコーラスグループ「New Christy Minstrels」スタイルのバンドを目指して練習を開始した。
その夏の合宿中に、竹元・上野・谷戸のシニアグループと新入生のジュニアグループに分け、シニアは「The Kingston Trio」スタイル、ジュニアは引き続き「New Christy Minstrels」スタイルで活動をすることにした。ここに「TUT Excaliburs」が誕生したのである。

 

 

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◆学生時代

 

1968 TUT誕生

 

 

フォークソングブームの真っ只中、1968年の初夏、神戸六甲の中腹の大きな体育館のはずれにある、薄暗くみすぼらしい神戸大学軽音学部の部室で、TUTは誕生した。 メンバーは、3年生で既に複数のバンド活動を経て、新しいメンバーを捜していた神戸育ちの天性歌好き青年竹元のもとに集まった、出雲の田舎から出て来た好奇心旺盛な谷戸と、都会派になり切れない転勤族の息子上野の計3人。
68年11月の軽音楽部定期演奏会のバンド紹介
子供のころは演歌歌手を目指し、フォークからロックまで幅広いジャンルを歌いこなす、時代の先端を行っていた竹元に、遅れて来た素人の下級2年生の2人が、正に、おんぶにだっこのスタート。 TUTの初舞台(68年11月の軽音楽部定期演奏会)。何と竹元が持っているのはガットギター

The Kingston Trio
のフリークでもあった竹元の指導下、最初の持ち歌になったのは、コーラス部が少なく比較的単純なLast Night I Had A Strangest DreamGotta Travel On2曲。 これをもって大学内のイベントに出たのがTUTの初舞台。 先輩からの評判はまずまずで、これはいけるかな、と即その気になったのが調子乗り3人の全ての始まり。

 

 

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◆ラジオ番組「歌え、MBSヤングタウン」に挑戦

 

 

まず目指したのが、当時若者に大人気であった斉藤努さんが司会を務める(桂三枝さんは追って登場)公開ラジオ番組 ”歌え、MBSヤングタウン“のアマチュアバンドコーナーへの出演。 早過ぎるとも見える大挑戦に不安を抱えつつ、大阪でオーディションを受けるが、意外や一発で合格。 結果、ラジオから3曲ものTUTの歌声が流されることとなり、芸人としての味をしめる。

同時に演奏後、プロデューサーより、継続して毎月の歌を唄うことは可能か、とのお誘いを受けるが、「Policyとして日本語の歌は唄いません。」と、誠にもったいなくも片意地を張り、きっぱりとお断りする(実は、自作の歌など無かっただけでもあるが)
プロデューサーより、それではと、急遽、いずみたくさんが進行役の「Big Hootenany 69」という大舞台への出演依頼をうけてしまう。
この頑に押し通す英語原曲Policyが、その後、良しにつけ悪しきにつけバンドの運命を左右し、結局は、現在に導くこととなるが、TUTのアイデンティティーの芽生えでもあった。

 

 

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◆虎の穴「Lost City」へ出演

 

 

TUTはその後、学園祭等の活動も展開するが、同時に狙いを定めたのが、当時、泣く子も黙る、ブルーグラス・カントリー系ミュージシャンの登竜門、“虎の穴”であった神戸三宮のライブハウス“Lost City”への出演。(Relationship “縁”の「Lost City」参照)

数年後にはアメリカ本国でも絶賛されることとなる多くのミュージシャン達の演奏の場であったLost Cityでは、フォークソングなどは軟弱な女子供の歌であるという風潮もあり、Solid指向な聴衆には、ある意味、軽視こそされ余り歓迎されない、という雰囲気があった。そこでの通常のフォークソングの演奏などはブーイングの対象になりかねず、実際に無理に挑戦した下手な演奏には、聴衆は即退場をもって意思表示をすることなど日常茶飯事である、正に「虎の穴」そのものの舞台であった。我々は果敢にも、その厳しい環境ゆえに、敢えて一度でもよいから演奏したい、自分達の追及している硬派のフォークソングの真髄というものが通じるか、理解してもらえるか、試してみたい、と言う思いを秘めていた(The Kingston Trioの真髄を訴えたかった?)。

 

 

 

 

そして、TUTは、レパートリーが6曲を超え、30分の演奏が可能となった時、満を持して、Lost Cityの門を叩いたのである。 来るべきその日の夜、TUTの緊張は極度に高まり、コブラの前でダンスを踊るかのごとき心境の下、半ば、やけくそで、3人は、小さなハウス一杯に大きな歌声を発したのである。 結果、ある意味、予想外に、多少受けたのである。「Lost City」での演奏

その後、幾度もの演奏を重ねることとなるが、このLost City特有の緊張は終始無くなることなく、セミレギュラーBandとなった後も、TUTにとっては、格好の鍛錬の場所であった。 何故か最初から、野崎マスターがTUTを認め、何かと目を掛けてくれたのも嬉しい誤算であった。このLost Cityへの出演により、TUTは、音楽を通じ、多くの人々と知り合うこととなる。

当時全く日本に紹介されてなかったアイリッシュバンドのLost Cityでの演奏などに接し、その珍しい笛の音に感動を覚え、フォーク本来の素朴さと人間臭さに思いを新たにし、より深く、アメリカからイギリスにさかのぼるフォークの源流に足を踏み入れることになるのである。

 

 

 

 

Lost Cityは、多種多様な外人の集う場所でもあった。 最後のMPを名乗る酒浸りの独身駐在アメリカ人から、外国人学校の帰りの根城としていたドイツ・カナダ・インドの少年達、神戸港で下船しビール一杯で長々と粘る外人船員、兵隊達と反対に少しすまして格好をつけた将校達、家族でも覗きにくるファミリームードのイギリスの大人の人達。 日本人に混じって、日々様々なスタイルで自分なりの空間を自在に楽しむ光景と文化が垣間見えた。 

Lost City外人客の中に、イギリスの名誉領事のアイルランド系のブライアンという御仁がおり、彼が、特にTUTを気に入ってくれ、当初よく外人クラブや彼の大きな家まで連れていかれ演奏もした(彼は、ある種の名士でもあったが、晩年、悲しい運命を辿る、神戸では知る人ぞ知る御仁)。 飲み、喰い、歌う、陽気で絢爛な外人クラブの宴を知ったのは貴重であったが、TUTの演奏といっても、端っこのテーブルでの簡単な料理とお酒のみが唯一の見返り報酬であり、ブライアン氏の大きな家に招かれても食べ物も何も出てこず閉口したりもした。 外人の質素さ所以か、一線を越えぬところか、はたまた、友情ベースというのはかようなものか判らぬ所多々あったが、いろいろな経験をしたのは事実であった。 そして、肝心なのは、遠く故郷を離れた彼らの音楽に抱く郷愁や人間として歌に求めるものに、共通の本質を感じ取ったことであった。 アイルランドやスコットランドの存在を、しかと認識したのも、本当に、こうして、歌を通じてであった。

 

 

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◆末廣氏との出会い

 

 

しばらくして、ラジオ関西(現在:AM KOBE)のプロデューサー・末廣光夫さんと出会うこととなる。 野崎マスター経由の話しで、ラジオ番組への出演のオーディションと収録の為、ラジオ関西のスタジオに出向き1−2曲演奏した時である。 他にもいろいろなアマチュアーフォークグループが、大勢参集しており、アシスタントプロデューサーがその場を取り仕切っていた最中、末廣氏は颯爽と現れた。 そして、偶然にもTUTの歌を聴くなり、表情を変えて、急にアシスタントプロデューサーをさえぎり、凛としてこう言った、「君たちは、Lost Cityから来たんだね。もっと聞かせてくれ。」。 

この出会いが、TUTの活動に、新たな展開を生むことになった。 その後、何回もラジオ関西へ出演することになり、末廣プロデューサーとのお付き合いが始まる。 

特に東芝EMIのプロデューサー高島弘之さん(高島忠夫さんの弟、高嶋政伸さん・政宏さんの叔父)が司会をしていたラジオ関西の番組「そごうヤングメイトタイム」には、毎月のように出演させていただき、中村とうよう氏や藤井肇氏からも有り難いご批評をいただいた。

69年11月神戸労音での演奏。(高石ともやさん、瀬間千恵さん、司会:末廣光夫さん)当時ニュー・クリスティーミンストレルズのメンバーから凱旋帰国した伊東きよ子さんと廻った鳥取・米子の演奏旅行では、一等列車(今のグリーン車)での移動、宴会付温泉旅館宿泊、サインをせがまれた思い出、と数々の初体験に感動。  

神戸と和歌山の労音では、高石友也さん・シャンソン歌手瀬間千恵さんと競演し、TUTは、なんと7曲も演奏。これら、全て、末廣プロデューサーによる企画であった。 3曲だけ歌った瀬間さん一人が貰うギャラの多さに比べ、8曲も歌ったTUT3人のギャラ1万5千円にプロとアマの違いを知ったのもこのころであった。

 

 

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◆「ヤマハライトミュージックコンテスト」入賞

 

 

TUTとしての演奏が、ある程度の軌道に乗った時、もう一つ目指したのが、ヤマハの「ライトミュージックコンテスト」(後のポプコン)への参加であった。

夏の山中湖での濃い合宿練習を経て、“Johnnieが凱旋する時”という曲をものにする。 曲自体の魅力とともに、我々の完成度にも珍しく自信が持てた。 これを引っさげてコンテストに参加した。 評判はすこぶる良かった。 歌う度に、聴衆が歌に引き込まれていくのが判った。 神戸は、Jazzギターの大村憲司さん率いるカウンツ・ジャズ・ロック・バンド(結局、彼らが日本一バンドとなった)も参加したレベルの高い大激戦地区であったが、神戸地区予選、東中国ブロック予選と、TUTは、ダントツの1位で駆け抜ける。

日本語自作の歌が有利と言われていたのをものともせずに。 そして運命の関西代表を決める決戦、大阪の厚生年金会館にてコンサート形式のコンテストが行われた。 フォーク部門は、京都代表で既にセミプロ的活動をしていた「バニティー」、このコンテストを踏み台にプロを目指して結成された大阪代表の「赤い鳥」(のち「ハイファイセット」と「紙風船」に分裂)、同じく大阪の「スロース」といった8バンドの競演、その中で、神戸代表のTUTがトリ(最後の演者)という、出来上がったようなステージ構成であった。 しかし・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

最初は、Georgia Stockade69年11月神戸労音での演奏(ベースは大塚さん)

別に緊張もせず、バンジョーの軽快なイントロに続きコーラスに入った時、突然、何かが起こった。 上野のギターの第5弦が、元からプツンと大きな音を立てて切れたのである。 新品の弦ではありえないはず。 太い5弦故に、ギター全体のチューニングは狂い、伴奏に耐えないものとなるが、始めは何か判らず、珍しく全てに動揺。 でも、一発勝負のコンテストでは、なすすべは無く、無理矢理そのまま2曲を歌い切るのである。 演奏を終えたとたん、奈落の底に落とされ、茫然自失となった。 結果は、フォーク部門第3位(1位「スロース」、2位「赤い鳥」)、空しくも、きっぱりと、100%の自信もあった東京決戦進出の道は絶たれたのである。「事故があったの? 可哀想、、、」と、表彰の時、隣に並んだ他バンドから声を掛けられたし、3位の賞品でギターを貰ったが、そんなものは要らない、これは悪夢か、もう一度、と心の中で叫んでいた。 背景は不明だったが、後日、権威ある審査員の一人から呼び出され、激励とともに親切な話しもあった、「伴奏の音がおかしかった。妙な音も聞こえて。審査に何か異議があれば、お聞きしますよ?」には、苦笑いして首を振るしかなく、ただ言い訳は一切しなかった。 今も、よく思い出す、唯一、たった一回の、悔しかった思い出である。

 

 

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◆最初で最後のTV出演

 

 

その後、TUTは何事も無かったように、演奏活動を続ける。

いろいろなコンサートで、多くのプロとも競演した。毎日ホールに出演した際、友達に頼まれサインを貰いに行った隣の楽屋の森山良子さんのマネージャーに激しく睨みつけられビビッたこと、舞台フィナーレで隣に並んだ、「シューベルツ」はしだのりひこさんのダチョウの羽コスチュームの超派手さに目を見張ったことなど、最初のころの楽しい思い出である。 

華房プロデューサーに呼ばれた松坂屋ドレメスクールの創立20周年記念イベントで(当時関西一の劇場であった「大阪フェスティバルホール」)、一緒した加藤登紀子さんがもの静かな雰囲気であった一方、同じ空間にいた野坂昭如氏の腰が低く丁寧で、楽屋で交わした人間味あふれる言葉に感動をしたこと。 後半であった我々の出番の前が、大きく押した為、1曲のみの短縮演奏で御容赦を、と主催者から泣きで懇願され「判りました」と答えつつ、内心“我々は歌いに来たんだ!”、(華房さんも「好きにしなさい」と小声で囁いてくれて)と、舞台では、結局しっかりと3曲を、心置きなく歌ってしまったこと。 

高石友也さんと共演した労音の舞台が、終了後主催者との反省討論会などもあって、若干重たいながらも音楽の捉え方の多様性も再認識させられたこと。

プロの世界を垣間見つつ、アマチュアゆえの、様々な貴重な体験があった。

 

 

 

 

一方、どの時点からか、レコードを出さないかという声が聞こえてくる。高島弘之さんからも、自身がプロデュースしたフォーククルセーダーズの後釜候補のひとつとして、よく迫られた。

結局、同プロデューサーと一緒に、夜11時からの1時間全国ネットのテレビ番組“ナイトショー”に「レコード会社からデビューを勧誘されても断り続けている、今どき珍しいバンド」ということで生出演することとなる。 演奏に続く番組中の対談で、司会のはかま満夫さんと横山道代さんより、「日本人なんだから、レコードを日本語で出せないなんてのは、おかしい!」と叱られたのには、びっくりし、素人として対応できなかった。 後で聞くと、どうも、テレビに出すので、レコードを出さないかとの、最終的お誘いバーターが背景にあった由。 要は、素人故の恐れを知らぬ素直な対応であった。

 

 

 

 

でも、テレビとは、夜11時からの出演なのに、5時ごろから楽屋入りし、弁当も出て、化粧もされ、綺麗なおねえさん達に会え(色気ムンムンのカバーガールの着替えの場に迷い込み、睨みつけられ怒られたのは、バンジョーの谷戸)、帰りは、深夜故か、全員がそれぞれ局手配のタクシーで送って貰えることを知り、我々貧乏な学生さん達は、痛く感激をした。ただ、後で、封筒に入っていたギャラが一人2千円強の低額だったことに不満気に触れ、末廣プロデューサーから、「馬鹿やろう! 普通は逆だ。 皆、出させて貰うのに大金を払うもんだ。お前ら、ギャラを貰っただけでも大喜びしろ!」と怒られ、笑われたのも覚えている。

 

 

 

 

そのころは、本当に日本語の歌を歌う気はなく、世の中の和製フォーク路線とは、完全に逆方向の音楽を追求していたのは事実であった。 例えば、神戸ではフォーク・ソサエティーの「ポートジュビリー」などが活発な活動を展開し、女性にも大人気であったが、我々は男臭さを売り物(?)のBlue Glassやカントリー中心のLost Cityの定期コンサートに注力していた。(今思えば、もったいなくも、青かった)

そして、このテレビ出演を期に、レコードを出す話は消えていった。

 

 

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◆「The Kingston Trio」来日公演

 

 

69年10月The Kingston Trio来日の大阪公演チケット貴重な体験は、もう一つ、1969年大阪公演を行ったThe Kingston Trio(3代目)の公演後の楽屋に押しかけ、あらんことか、3人で彼らの楽器を持って目の前で、”Hard, Aint It Hard”を歌い演奏して見せたこと。

ボブ・シェーンに、感想を聞き、0.5秒の沈黙のあと、無理矢理「Great! 」と言わしめたのは、今思えば、誠に恥ずかしい。楽屋で、不謹慎(?リラックスして)にも水割りを飲みながら、カードゲームに興じていたボブ・シェーンが立ち上がると、上野も見上げる大男で、話し声も太い太い大声、そのギターのネックも異常に太かったのには、驚かされた。
あの大巨人の大声の歌には、到底かなう筈がない、と肌で感じ納得もした。

でも、あの時、我々を躊躇することなくあの場に引っ張って行った、バンド仲間先輩の矢部やす次郎氏のクソ度胸にも完全脱帽した。

その時記念に貰ったThe Kingston Trioの名前入りのピックとサインは、我々の大事な宝物だ。

The Kingston Trioの名前入りのピックとサイン。
↓画像をクリックすると拡大表示になります。↓

The Kingston Trioより貰ったピック。それを真似て、作ったTUTのピック。

3代目The Kingston Trioメンバー全員のサイン

 

 

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◆香港・台湾クルージング、そして解散

 

 

それよりも楽しいことはたくさんあった。 オマケとも言えるが、Lost Cityの紹介で、大阪商船三井の「さくら丸」に乗り、香港・台湾・マカオの旅にも行った。 海外演奏旅行と言えば聞こえが良いが、要は、さくら丸2週間のクルーズに同行しタダで観光を楽しめる代わりに、乗船中夜は専属楽団として船で演奏をし、客を楽しませる、というもの。 クルージングの楽しさを、客と乗船員の2つの角度から満喫できた貴重な経験であった。(このころのベースシストは、Lost Cityの主で同じ軽音学部のJosh大塚大先輩に御願いしており、さくら丸も種々のコンサートも全てお世話になった)

 

 

 

 

そして、ついに1970年の竹元の大学卒業をもってTUTは解散することとなる。 結成以来、わずか1年半の太くて短い、しかし、内容の濃い青春のバンド活動であった。 最後に3人で演奏したのは、大阪万国博で、後輩バンドと一緒に行った舞台、噴水やスクールメイツをバックにしたりの、妙なステージであった。 バブルで、ギャラが、かなり高かったのを覚えているが、今思えば、TUTの最後らしい場面であった(パスを貰ったのが、入場料がタダになる以上に、特権意識をくすぐられ、やけに嬉しかった)。

 

 

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◆空白時代(1971年−2000年)

 

 

この間の活動の例外は一回のみ(メンバーの結婚式で演奏した以外)。上野が就職して、1年も経たないころ、末廣さんから、新幹線の運賃持ちのギャラ有で、帰って来て演奏しろ、との指令があった。72年4月末、竹元と上野は、帰阪して、3人でステージに立った。72年4月、神戸そごう屋上

百貨店そごうの屋上のOpen Stageであった。 大塚さん達のLost City Catsと我々TUTが、かなり歌って、第一部を消化した。 何と、ステージの上には、大きな看板が下がっていて、“帰ってきたフォークソング!”と書かれていた。 我々のこと??いやあ、趣旨の判らない催しであったが、気にも留めなかったし、社会人なのに、学生時代に戻って十二分に楽しんだ。

 

 

 

 

ただ我々の一部が終わったあと、第二部に出ていた新しいバンドが、実はその1〜2年後に大ブレークした「アリス」であったのは、今思い出すと驚きであり、興味深い。

女子高校生達が数十人、キャアーキャアーと声援を送っていたのを鮮明に覚えている。(思えば、こっちの方がメインだった)。 

 

 

 

 

その後は、メンバーは、社会人としての生活を広げ、海外も含め各々遠く離れ、沈黙のみ。 正に、30余年の、長い、長い年月。 この間、全く活動は停止していた。ただ1990年代前半、神戸大学軽音楽部OB会東京支部(KOBELM)の集まりで、竹元と上野が即席のBandを組み数曲歌う余興が楽しみだし、Re-Unionへの伏線にもなったということはあった。
しかし、神戸と東京の遠距離の壁は如何ともしがたく、3人が本格活動は無理と諦めていたのも当然であった。


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